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赦し Comments (3)
尚玄という役者さんは初めて見る方だったのですが、スーツの似合う、彫の深い役者さんで、ちらしの筆頭に名前があるので、ヒロイン(加害女性)の松浦りょうより重要な演技をするんだなあと思って、本編を見ました。
開始5分、尚玄のセリフ回しが下手で大根と思った瞬間から、帰りたくなりましたが、きっとなにかあるんじゃないかな?と言う淡い期待から途中退席をせずに最後まで観ることが出来ました。
簡単に感想を言うと「赦し」というタイトルに対する表現のあまさ、MEGUMIと藤森慎吾では夫婦の危機やひっ迫した問題を表現できない事(ちゃらいし、MEGUMIは軽いし)、そして、尚玄と言う舞台俳優の様な容姿はいいけど演技が三流の役者と相まって、何の緊張感も生まれませんでした。
ゆいつ、松浦りょうがほっそい目で後ろの尚玄の姿か、ただ後ろを向いているのかじっと見ているシーン(映画のちらしにもなっています)の雰囲気があり、今後、日本人だけでなくアジア人を演らせたら右に出る物がいないでは?と思わせる感情の無い芝居はこの映画、唯一の発見で掘り出し物だったかもしれません。
本作の主役としては克と前妻・澄子になるのでしょう。ですが、物語の核心は服役7年を経て心の葛藤をとおして自分に向き合った夏奈の現在(いま)です。自分の行動を悔いる想い、懲役刑を全うしても再審請求が認められて釈放されても、自分は何のためにどう生きるのか…。裁判と刑期、罪と罰、悔悛と赦し…。重たい心の動きを、少ないセリフながら夏奈役の松浦りょうの演技が、独特のリアルな感性で語っています。
フライヤーと予告編に聖書のマタイによる福音書6章15節の一節が掲げられている。監督・編集者のチャレンジングな問い掛けが、観る者の胸に迫ってくる佳作でした。
公式サイト https://yurushi-movie.com/
テレビのニュースやいわゆる「法廷モノ」なんかを見ていると、日本の法廷というのは本当に代理戦争としての側面が強いなあと感じる。当事者たちが互いの偽らざる言い分をぶつけ合っているというよりは、彼らをスポンサーに、検察官と弁護士というゲームプレイヤーが試合を行う、といった趣だ。
もちろんここには功罪があると思う。法廷というゲームに知悉していない者が出しゃばって自滅するよりは、全ての戦略をプロに一任したほうが「勝率」は確実に上がる。ただ一方で、当事者たちの人生を大きく変えうる可能性のある場において、「勝つ」ことだけが本当に重要なことなのか。あるいは不明瞭な物事の正邪を確定する場で、検察官や弁護士の指示通りに嘘や方便を弄することに何の後ろめたさも感じないのか。
かといって法廷で偽らざる本音を吐露した者の末路は悲惨だ。たとえば濱口竜介『ハッピーアワー』で離婚裁判に臨んでいた妻は、「どう言えばいいかわからない」という繊細微妙な心境をそのまま口にしてまったことで明らかに不利な状況に追い込まれた。一方、冷静沈着かつ合目的的に裁判をこなした夫はといえば、独りよがりで暴力的な本性の持ち主だった。
さて、代理戦争と化してしまった法廷というゲーム空間において、当事者たちが真の意味で主体性を取り戻す方法はあるのだろうか?
本作における「証人を降りる」という行為は、一つの可能性なのではないかと思った。それは当事たちに許された数少ない主体的選択だ。
澄子は今の夫・直樹と前の夫・克との間を曖昧に揺れ動く中で、人間というものがそれほど強い生き物ではないことをフィジカルに実感していく。ゆえに彼女は夏奈が犯した罪に対して憎悪以外の感情で向き合うことができたし、自分の娘が実は夏奈を苛めていたという夏奈の証言も信じることができた。そして澄子は証人を降りる。弁護士や克の戦略に従って実感の伴わない勝利を得るよりは、「何が正しいのかわからない」という自分の嘘偽りない本心を優先する。
克は証人を降りた澄子に対して「お前は相手側の弁護士の策略に踊らされてるだけだ」と非難を浴びせるが、法廷の「0か100か」な二元論的力学に染まりきり、憎悪以外の動機を見失ってしまった克のほうがよほど踊らされているといえる。彼が自室で生前の娘との動画を見直して涙ぐむシーンなどは、失われてしまったものへの愛惜というよりはむしろ自身の憎悪を再燃させるための自傷行為のように思えた。
しかし最後には彼もまた憎悪を振り切る。憎悪と赦しの間をギリギリまで彷徨し続けた果てに、ほとんど無理やり赦しの側へと飛び込んだ。そのためいくぶんか血の代償を支払う羽目にはなったが、面会を終え、証人を降りた克の表情はどことなく晴れがましかった。
執行猶予付きの実刑判決が下った後、克は覗き窓から刑務所に連れ戻される夏奈の様子を伺う。ふと克のほうを振り返った夏奈が浮かべていたのは、喜怒哀楽のどれからも隔絶された曖昧模糊な表情だった。
人の気持ちを二元論で推し量ることはできない。それでも何らかの決断を下さなければいけないのが法廷という場だ。そうした不条理と相対せねばならなくなったとき、重要なのは自分自身を見失わないことだ。検察官や弁護士たちの掲げる「戦略」から適度に身を置き、他ならぬ自分自身の立ち位置をそこに策定すること。
それさえできれば、どうであれ齎された結果を受け入れることが出来るんじゃないかと思ってしまうのは、さすがに性善説が過ぎるだろうか?
たとえばあの聡明な女性裁判長が見るからに悪辣で不誠実な冷血漢だったとして、澄子と克は本当に証人を降りていたのだろうか?とか。