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ゼロの焦点 Comments (20)
『ゼロの焦点』(2009)
松本清張は名前や代表作の名前くらいしかわからないくらいだったので、この頃日本の恋愛ものばかり観てきたところ、有名なミステリーを観てみようと選択。テレビで何度も、映画で2度目の作品らしい。その2作目の主役は広末涼子。失踪した夫(西島秀俊)を探して金沢まで行く。時代は、1957年(昭和32年)頃である。恋愛ものと言えば、妻が夫を探しに行く恋愛ものとはいえるかも
知れない。松本清張生誕100年記念制作だったらしい。ときおり流れる背景の音楽がミステリーぽい。なんかしゃべりのイントネーションが、語尾の上がるところが、石川県なのだろうが、たしか岐阜県か、『ちはやふる』のめがね君にも似ていた感じがする。電話がダイヤルで昭和32年だなという感じだ。警察の机の上にパソコンが一台もない。ある程度早い段階で犯人がわかったようなわからないような、どっちかだと思うが、どうなのか。だが片方だとするとあまりに簡単すぎだ。夫を探す妻との対比か、昭和23年頃の昔、行方不明の夫は警察官をしていて、アメリカ兵相手の娼婦、「パンパン」の取り締まりをしていたが、そんな女が事件の背景にあるのか。松本清張、戦争の影を書くか。夫を探す妻が探偵役のようになっているのだった。しかし、現在でもそうだが、援助交際や風俗勤めなど、それが小遣い欲しさであるような貞操ない女と、貞操をひもじさゆえに超えてしまう女とが混在しているように思えるところから、複雑なことになる。それは事情があろうと、行為上、超えたことには同じであるとするほうがよくわかると思うのだが。パンパンとか二股とか女の境遇とか、男女関係のこじれが映し出されているが、犯人の動機は保身だったか。男に翻弄される女や、女の情念が描かれているのと同時に、女の市長選立候補という社会背景まで絡ませてある。戦争で生きていかねばならない状況が性を武器として、女を武器として、退廃を社会に浸透させていってしまったか。そうした心理的な面で松本清張は犯人の事情も考慮しようとしたかも知れないが、戦争が狂気の原因だとするならば、戦争から遠く離れた日本の現在の援助交際や不倫は一体なんだろう。『戦争は子供を早く大人にしてしまったんだ』というようなセリフがある。そしてクライマックスが、社会構造と個人的狂気のアンバランスを誘い出す様は、その心理劇は凄まじい。選挙の勝利という換気の裏には狂気があるのではないかとさえ思わせる。しかも当選したのは女性候補という設定である。昭和32年。1957年。60年も経過するというのに、ますます悪化しただけではないのか。政治背景とそして、警察官とパンパン。本当に時代がしでかしたのか。それとも男女の性がしでかしたのか。翻弄されてしまっても気を取り直して生きていけるための主人公設定だったのだろうか。ただ、松本清張はこの作品ではまだ、罪悪人は滅んでしまう運命にする気があった。だがその前に悪の近くに接触してしまった他者が罪悪人にやられてしまっていった。この重さは作品賞を含め、日本アカデミー賞の11部門で優秀賞だったとある。
思わず声が出そうになる。
戦後の灰塵から立ち上がって九州から裸一貫金沢に移り住み、一代で財を成した叩き上げの苦労人=室田社長は、実はすべてを知っていたのだろう、
妻マリーの“過去”も。
採用した受付嬢エミと我が妻との関係も、その過去も。
(そして社長自身も人には言えない人生を負ってきたはずで)
冷徹無慈悲な悪役と思えたあの鬼社長が、それゆえに、妻の犯行をかばい、妻の人生を丸ごと代わりに贖なわんとして自首をし、そして、急転直下ピストルを咥えたのだ。泣いてしまった。
僕は仕事で数年金沢に通った。冬の北陸は辛い。吹雪と鉛色の海とその海に垂れ込める重い雲と。
あの時代
繰り返し襲う能登の荒波のように、復興して立ち直ろうとする者たちを二波三波と戦争の傷が叩きのめす。
劇中それぞれの死については具体的に手を下した犯人はいる。
けれど、
新しい時代と新しい自分の再出発を願う女たちを、そして男たちを崖っぷちに追いやり、
東京から北陸金沢へ、そして能登半島まで、戦争の生き残りを追い詰めて行ったのは官憲ではなく、戦争そのものだったのだ。
「ゼロの焦点」は読んだけど、あまり面白かったという印象はなく、ぼんやりとしか覚えていません。
内容そのものは松本清張さんというか、日本映画の黄金パターンなんだけど、かなり商業主義にはしっていて、有名女優で客を呼ぼうとしているため、結果的につまらなくなっている。
女優さんの見せ場を作りすぎて、誰が主役かわからない。
普通は広末さんだけど、実際には中谷さんに完全に食われて、焦点が中谷さんになっている。
それで面白ければいいんだけど、かなりピンぼけな感じがする。
出張りすぎで、蒲田行進曲じゃないけど、「主役より目立つなよ!」と言いたくなる。
どうせやるなら視点を変えて、木村さんの演じていた田沼久子に焦点を当ててほしかった。
原作にあったかどうかは忘れたけど、木村さんの最後のセリフはよかった。
基本的に生きるって、他の生命を奪っていくことだから、つらいのが当たり前だと思う。
特に戦中、戦後を生きてきた人は、人には言えない悲しい思い出を、いっぱい抱えて苦しんできたのだということが、伝わってきました。
他の人の出番を削って、木村さんが演じていた田沼久子の過去とか恋愛を、丁寧に掘り下げていけばもっと面白くなったと思うし、「効果ゼロの焦点」にはならなかったと思う。
「ゼロの焦点」と聞くと、昔の野村芳太郎監督作品を映画好きは真っ先に思い出す。はたしてあの名作を超えられるのか、というのが第一の興味だったのだが、私個人の好みもあるが、前作を超えたものができた、という手応えを感じられた。
野村芳太郎のものは、同じ三十年代に製作されたこともあって、主人公の新妻の視点から夫の過去を追っていき、人間の欲望や業に重点をおいた清張原作によったものだった。ところが今回の犬童監督は、夫の過去や行動、殺人事件にそれほど重きをおかず、新妻を物語の語り部にして、日本の戦後を懸命に生きてきた庶民たちの生き様を画面にとらえることに重きを置いている。つまり、混沌としていた戦後の時代というものが、この作品の大きな核となっているのだ。
この作品の登場人物たちは、どこかで「新しい時代」「今までとは違う自分」という言葉を口にしている。それは、戦火を命からがらにくぐり抜け、戦後を容赦なく突っ走った者が、発展しつつある日本の社会にもう一度体を合わせようとしていた、あの当時の大人たちの心からの思いを表しているものなのだ。その気持は、現代の大人たちが必ずもっている、今の自分から変革したいとの思いに似たものだ。だからこそ、この作品は古風な雰囲気をもちながらも、今を確実にとらえる普遍性を持ち合わせている。そんな現代人が共感する部分に焦点を合わせた作品に仕上げられたのは、犬童監督の演出の見事さとスタッフの労力につきると思う。
学生時代、夜行列車で上野から金沢へ、そして能登へと旅したときのこと。夜行列車に乗った途端、自分が「ゼロの焦点」と同じルートを旅していることに少なからず興奮をおぼえたのだが、いざ能登の海(「ゼロの焦点」とは違う場所だったが)を見たときは、清張の世界なぞ吹き飛んでしまい、日本人の心の原風景を眺めているような懐かしさを感じた。
日本人の祖先は大陸の民族で、日本海の荒海をわたってやってきた、と言われている。だから、能登の断崖や海には、遠い日本人の祖先たちが自分たちの地を求めてきた魂が宿っているように見えたのだ。
この作品のラストシーンは、一連の殺人を犯した犯人が遺体となって小さいボートに横たわり、日本海に浮んでいるというものなのだが、荒波に木の葉のように揺れるボートを見ていて、私は学生時代に能登に旅したときに感じたことを思い出さずにおられなかった。おそらく、松本清張も能登の海に日本人の原風景を見出していたのだと思う。でないと、そう何度も能登を舞台に小説を書いてはいないだろう。その意味でこの作品のラストは、清張と日本人そのものをしっかりととらえているように感じる。