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麦秋(1951) Comments (20)
主人公は原節子の演じる紀子のようで、実は紀子の父親周吉だったのだと思います
終盤の周吉老夫婦が短く会話を交わし、遠くを見つめるともなくみやるシーン
人生の様々な出来事が二人の胸中に長く思い返されているのです
家族がうまれ育ちまたそれぞれに家族をつくり離れていく
本当に幸せでしたよ
周吉の妻のその台詞にこそ本作のテーマが込められてあると思います
その妻の言葉を周吉は噛み締めています
普通の暮らしをして老いていく、そして子供達はそれぞれに自立して巣立ち、自分たちは生まれ故郷に帰り人生を振り返る
このような幸せな老境に達した幸せ
戦争で次男を失くす不幸はあってもこれ以上の贅沢は言えない
その平和のありがたみがラストシーンの耳成山を背景にした奈良盆地の光景に表されていると思います
空に消えて行く風船は戦地から未だ復員せずもう死んだものと諦めている次男のことを象徴しているのでしょう
踏切で走りさる横須賀線の電車を見送ったまま、遮断機が上がっても動かず遠い目をする周吉
彼の脳裏には過ぎ去った人生の数々のシーン横須賀線の電車と同じように猛スピードで去来していたのだと思います
シーンとシーンの間の登場人物がいない独特の余白の空気感
胸中に渦巻く色々な思いを言葉にはせず、遠くを見つめる登場人物達
友人あやの母親の探し物シーンなどのくすりとするギャグも冴えています
日本人だけに分かる日本人だけの映画のようで、世界中の誰もが共感できる普遍性のある映画だと思います
日本映画のオールタイムベストだけでなく、世界屈指の名作とされるのも当然のことだと思います
紀子は矢部と突然結婚を決意します
その理由は確かに彼女の言う通りだと思います
しかしそれは彼女が自分で自分を納得させている言葉のように思います
ニコライ堂近くのお茶の水の喫茶店で矢部とコーヒーを飲むのですが、戦死したと思われる大好きだった兄の省二の手紙のことを彼女は矢部から聞きます
その時に彼女は矢部に兄省二の面影を見たのは確かでしょう
だから、あやに矢部のことをあなた好きなのよと言われた時、彼女は違う、安心できる人だから結婚するのよと答えたのです
ほら、やっぱり惚れちゃたのよと言われても、そうじゃない!と言い張るのです
そして家に帰り独りでつまらなそうにお茶漬けを啜る時の彼女の顔にはいつもの笑顔は無く、少しも楽しそうではないのです
彼女がその年になるまで独身でいたのは、妻子も有るであろう上司の専務に憧れていたからではないでしょうか
序盤での専務との会話はまるで夫人のようです
専務は節度を持って接しており、縁談まで世話しようとしていますが、終盤の退職の挨拶に来た紀子に彼はつい本音を冗談として口にします
もし俺だったらどうだい
もっと若くて独り身だったら・・・
駄目かやっぱりとお互いに笑ってごまかすのですが、彼は痛む腰を無意識に叩き、もう若く無いと自分に言い聞かせ戒めています
そして彼女に東京を良く見ておけと言いつつ、彼女の喪失の重さを今になって思い知っているのです
彼は本当は遊び慣れている男であることは、あやがかれのところに来た時の寿司の会話で分かります
蛤と巻き寿司は好きかい?の問いかけは、実は猥談です
料亭育ちのあやは直ぐにそれに気がつき怒ったのです
もっと言えば、あやもまた専務に魅かれていて紀子にかこつけて何かにつけて彼のところに通っています
密やかな三角関係が水面下にあったのだと思います
そうして家族写真撮影のあと、家族団欒の夕食のシーンでオルゴールを思わせる音楽がなり続けます
これがこの家族の記憶にいつまでも残るであろうことを演出する秀逸な音楽であったと思います
そしてこの大家族がそろって食事するのももう最後になると言う会話になったとき、バラバラになる家族の原因を自分が作ってしまったと紀子が泣くシーンになるのです
実は彼女はそれだけが原因で泣いているのではないと思います
憧れの専務から逃げ出して、手近にあったきっかけに飛びついていただけなのだと、やっと自分で思い至った、その涙だったのだと思うのです
その結果に彼女は今さらながら気がついたのではないでしょうか
専務とあやとの会話のヘップバーンとはオードリーではなくて、キャサリン・ヘップバーンの方です
彼女はフィラデルフィア物語など気の強い現代的な女性を演じるのが常でした
初夏、麦が実る季節
劇中の季節だけでなく、紀子も人生の初夏を迎えているのです
実らぬ恋を諦めて矢部と結婚をし秋田に行った彼女は、これから色々な苦労を経験し乗り越えていくのです
そうして彼女も周吉達のような老夫婦になっていくのでしょう
そのような感慨をもって、花嫁が行くよと周吉は眺めているのです
その花嫁の行列が進む背景にある低いなだらかな山は大和三山のひとつ香久山です
ラストシーンの三角の小さな山はこれも大和三山の耳成山です
奈良盆地の中央、近鉄大阪線の耳成山駅の南側1.5kmの辺りでのロケのように思われます
振り返って南を見れば香久山です
ここから北側の耳成山方向は結構都市化して今はもう見渡す限りの田圃の光景は見られなくなっていますが、南側の香久山方向は周吉夫婦がみたような一面の田圃が今も広がっています
残念ながら麦はもう植えられてはいないので麦畑ではありません
そこに点在する集落の中には映画に写るような古民家もまだほんの少し探せば残っていると思います
奈良観光の際は大仏だけでなく、足を伸ばしてこのロケ地辺りまで脚を伸ばして散策されては如何でしょうか
耳成山も香久山も山の姿は今も変わりはありません
藤原宮跡はそこから徒歩で西に直ぐそばです
明日香村にも車で近いです
もしかしたら勇ちゃんが周吉の兄・茂吉のような老人となって大和に墓参りに来ているかも知れません
紀子三部作第2作。
デジタル修復版Blu-rayで2回目の鑑賞。
“小津調”の確立された様式美の中で、日常を丁寧に淡々と描写していくことによって、くっきりと浮かび上がって来る、普遍的な人間の営みと想い…。全ての小津映画に共通する点ではありますが、他の作品たちと同様に、本作の豊かな人情の機微も、静かに心に染み入って来ました。
娘の結婚が物語の中心に据えられているのは前作「晩春」と似通っていました。ですが同作では、父親と娘の関係性を描いていたのに対し、本作では娘の結婚に揺れ動く大家族の姿を描いていたところに違いがありました。
変化しないものなど、この世には無い…。全ては時と共に移ろいゆく定めの中にある…。紀子の友人たちも結婚して、友情よりもそれぞれの家庭が優先されるようになる…。
一緒に住んでいる家族だって、紀子結婚問題で若干の不協和音が走ってしまったし、紀子が結婚して夫がいる秋田へ行くことになったのを契機に、別々に暮らすことになりました。
同じ関係は永遠に続かない。だがそれは、悲しいことではない。はじめは寂しいかもしれないが、その変化は新しい幸福への第一歩なのだと思いました。それを象徴するように、見事に実った麦畑が映し出されるラストシーンが印象的でした。
会話を中心とし余分な説明を排除した脚本は、粋とは思った。有名なローアングルの独特な構図は、あまり好きにはなれなかった。こちらに向かって俳優が話しかけてくる構図も、違和感を感じてしまった。
兄と弟絡みのやりとりはユーモア混じりで、まあ楽しめた。高名ではあるが原節子にはあまり魅力は感じず。一方、嫁役の三宅邦子さんは良い女優さんと思った。結婚する相手の母親役の杉村春子さんは、気持ちの浮き沈みが体全体で表現されていて、流石と思わされた。
小津映画の解読力が十分でないためかもしれないが、幾つかの謎が自分に残った。
まず、最初に海浜を歩く犬の意味は?原節子演ずる紀子は、子持ちの矢部医師と、どういう気持ちの動きで結婚する気になったのか、それが画像上で表現されてるか?その結婚決定に、戦死したらしい紀子兄への思いは、どう関係しているのか?
矢部医師は何故、紀子が自分のところに嫁に来てくれることを知っても、嬉しそうで無かったのか?紀子が矢部と結婚することに決めたことを、なぜ、誰も祝福しようとしないのか?
紀子は縁談相手を覗き見て、どう思ったのか?その気持ちと、見た後のお茶漬けのご飯おかわりは、どう関係しているのか?
「いいのかね〜、勝手に決めちゃって」
「本当に困ったもんですよ」
「う〜ん、どうしたもんかね〜」
小津の描く家族。それは世界にも類を見ない唯一無二な世界。
映画の途中で、楽しい会話の中。いきなり戦争から帰って来ない、消息不明の家族の会話になり。それまでの楽しい会話は暗くなる。
「もう帰らんモノと思ってますよ。これは(妻は)諦めておらんみたいですが…」
『晩春』でも、いきなり戦争の話題が登場し。一気に映画の世界観を一変させ。そして『東京物語』では、映画の歴史上でも驚異的と言えるあの台詞が原節子の口から発せられる。
「あたし…狡いんです」
《もはや戦後ではない》
当時の世の中がそんな風潮の空気の中、小津からの問い掛けは。一見して、映画が描く世界観からは逸脱した隠れたところで。
「忘れる訳が無い!忘れてはいけない!」…と言ったメッセージなのだろうか?
小津が描いた家族は、どうみても中流以上のかなり恵まれた家庭で間違いないのだと思う。
それでもなお、娘(この作品では妹)の結婚相手には、より位が高い身分の人に…と思う。
年齢差が有る事に不安を口にする母。
それに対して「贅沢言ってられないんだ!」…と。
「贅沢なのかね〜…」と母。
嫁を貰う男の立場に反し。嫁に行く女の立場の違いには、延々に相容れない深い溝が在るのかも知れない。
その為なのか?それまでのルンルン気分だった家の中が、まるでお通夜の様になってしまう。
遂に決断する原節子。
それまで、まるで〔サザエさん〕の様な家庭で在ったのに、あっと言う間に家族が散り散りになる運命が待っている。
この辺りの。小津演出による、観客の脳天にズドンとハンマーを振り落とす手腕は恐ろしい。
しかも、その一気に落ち込んだ心を。家族写真で一瞬の内に引き上げる手腕にも、やはりとんでもない程の恐ろしさを感じない訳にはいかない。
ちょっと前のネットの情報で、小津作品に於けるショットの秒数を数えた人が居たらしい。
特に晩年の作品に関しては。、上映時間を総ショット数で割ると。1ショットの平均秒数が殆ど一致していたらしい。
それが本当だったならば。小津は、1ショットの積み重ねで人間の感情をコントロールする事を考えていた事になるのかも知れない。
【行き組】と【行かず組】との人参問答(『晩春』では大根)を始めとする。多くの楽しい会話のキャッチボールの裏で起こるいざこざや、親夫婦の侘しさ等。
常々、個人的に。小津安二郎とゆう人に対して抱いていたのは…時代が時代ならば、ホラー映画作家になっていたんではないか?…と思う事がたまに在ったのだけど。まさに『麦秋』は、その思いを再確認(勝手にですけど)させてくれる作品でした。
初見 並木座
2019年4月18日 シネマブルースタジオ