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許された子どもたち Comments (20)
人間の行動は遺伝を含めた環境の要素によって決まるものであり、自由意志など存在しない。ゆえに自己責任などというものはない。これは、社会科学・認知科学的にも認められている事実である。上記のことからして、本質的にはそもそも人に”責任”を負わせる・償わせるという概念はそれ自体が成立しない。しかし人間が作ったこの社会を健全に動かしていくにあたって、それでは不都合が生じるために、法律が作られ、それに違反したものには懲罰を与える、罪を償わせるというルールが出来た。それが社会における”責任”というものなのだろう。しかし、現実を見てみるとどうだろう、法律を作る側の人間が不正をしていたり(その程度の人間が法律を作っている)、自分たちに有利になるよう法律を改正したり、権力のある弁護士を雇えば好き勝手に法律の解釈を変えることが出来てしまうというようなことが起きている。上級国民案件などは殆どそういった内容である。そんなものに価値はないと思う。法律なんて単にお上の都合のいい社会を形作るために作られたクソみたいなものでしかないのではないかと思う。そもそもその人間自体には”責任”なんてものは最初からないんだから、法律や責任などというゴミみたいなものに縛られて生きるよりも、自分の生きたいように生きる方が良いのではないか。
最後はそういった呪縛から解き放たれたことが感じられるようなセリフとか演出があって、ハッピーエンドに思えた。
主人公が成長して、自分の罪と自分の言葉で向き合えるようになるところまで描いてほしかった。自分の内面を表現する言葉を持たない主人公というのは、中学生という設定上自然ではあるが、それだけで終わっているのは映画表現として逃げではないか。
世間からの迫害にしても、風化してはいるものの完全に記憶や記録から消え去っているわけではないという段階の在り方を描いてほしかった。
また、リアルに描かれているところとそうでもないところが混在していて全体として不統一な印象を受けた。特にリアリティを感じたのが、学校でいじめについてのディスカッションをするシーンで、「みんなが夢に向かって努力していればいじめはなくなる」と発言した生徒がいて周りから笑われるところなどは実際にやらせてみないとなかなか出てこないだろう。逆にリアリティを感じなかったのが桃子に対するいじめで、やってることが古典的すぎないかと思った。
そもそも桃子がいじめられているという設定自体必要があったか疑問に思う。桃子が主人公にとって都合のいいキャラクター過ぎて違和感がある。
正義派ぶって迫害する側の人間をもっとまじめに描いてもよかったのではないかとも思った。転校先で主人公の正体をバラす、妙に芝居がかったことを言うが活舌が悪い男子生徒はコミカルで面白いが、そこをコミカルにしてしまっていいのか。主人公の母を殴ったニコ生主にしてもそうである。また、そのニコ生主がそのあとネットで称賛される流れには違和感を感じた。
緑夢という名前は見た瞬間笑ってしまった。スノーボーダーじゃん。匠音というのもダイアモンド☆ユカイの息子の名前だし、どうかと思う。
ただ、グロいシーンはカットしてでも、今の子どもたちに観てもらいたい映画だった。
同級生をいじめ、ついには殺した。
少年審判の決定は「不処分」だった。
いじめること、殺すことに罪の意識を感じない絆星、そして息子のことを何も知らず、ただただ守ろうとする母親にイラつく。二人とも壊れていた。バッシングの日々を延々と描くが、二人が反省することはなかった。
先日観た『マザー』を思ったが、今作の母親と息子のほうが間違いなく多数派。彼らに対し為す術がない自分に呆然とした。
柳楽優弥の『ディストラクション・ベイビーズ』につながるような絆星を演じた上村侑くん、そしてクソのような母親を演じた黒岩よしさん(元オリンピックの水泳選手だったのですね)が強烈なインパクトだった。
法的話にもなり不起訴となるが、社会はその事件を放っておく訳が無い。
観客は加害者側を「ざまぁねぇな」とか「少しやられ過ぎて可哀想」と思ってしてしまう展開だ。しかし、描かれた序盤真実が無ければ首謀者以外は真実を知らない人間達のドラマ。
子供の為なら何しても構わない様なモンスターペアレンス的主人公母親(この少しお金持てばBMWを買って乗ってしまう様な中層家庭には笑える)、真実など気にせず自身の役割をこなそうとする容疑者弁護人、境遇から逃げようとしてもネットで名前が晒される加害者主人公、偽情報にてイジメに遭う少女、自分のイジメを棚に上げる子供達等、かなり現代社会的である。
子供も大人も、誰もが同じ境遇になるかも知れないというサインだと思うし、心に受け止めて置きたい。
面白いのだけれども、映画としてはラストが投げっぱなしジャーマン的なのは頂けない。
「そこまでこのテーマでやっておきながら行き着く先はそこ?」的。ちょっと途中までの盛り上がりからは少子抜け。
「(第三者から観て)やってる事おかしいんではないか?」
それを言えなくなってしまった現代社会の罪と罰。
面白かったですよ✨