それはまるで人間のように
プロット
日本
Sep,05 2020 In Theaters
その日、カレーライスができるまで
プロット
日本
Sep,03 2021 In Theaters
ブルーを笑えるその日まで
プロット
日本
Dec,09 2023 In Theaters
触れッドペリー
プロット
日本
Mar,10 2023 In Theaters
ピカソがピカソになるまで
プロット
イギリス
Jan,29 2021 In Theaters
その名にちなんで
プロット
アメリカ・インド合作
Dec,22 2007 In Theaters
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その手に触れるまで Comments (20)
いったん、はまるとこだわる性格。
そこに、宗教がからむと、もういかん。
どんなことも、コーラン(教典)にかかると素晴らしく聞こえてしまうわけですから。
まだ自我が確立していない子どもが、ここにはまると、もう、抜け出しにくいのではないのだろうか?
実際には、身近な大人が「そうはいっても、現実には…ね」みたいな、色んな考え方を指し示すわけです。
でも、偏りのある宗教者に見込まれてしまうと、もう、ロックオン状態ですよね。
呪縛が解けなくなるわけです。
最後、いったいこの子はどうするつもりだったんだろうか?
本当は?
そう考えると、背筋に冷や汗。
世界的に、子どもの発達傾向は課題なのでしょうね。
劇中、ほぼ音楽無しでカメラワークは手持ちで(多分)人物を中心に写すところが印象的でじわじわくる作品だったんですよね。
その後、2人の過去作品を何本か家で鑑賞しましたが、どの作品もドキュメンタリータッチなのに見入ってしまう内容ばかり。
本作でもその手法は健在で、音楽は無いし引きのカメラワークも少なくほぼ人物中心の描き方。ベルギーならでは、というよりは欧州が抱える問題でもあって、その問題をべースに人はどう変わることができるのかというところが焦点な気がしたんだけど、、
少年アメッドはどうだったかというと、握手さえ拒んでいた人間がああなれたのは救いだけれど、あのシチュエーションでそうなったのはいささか突拍子もない演出に感じました。作風も題材も好みですが、、
やがて指導者の言葉に影響を受け、現代的な考えの女性教師イネスを殺害しようとする。
少年院に入っても決まった時間のお祈りを欠かすことはない。
母の訴えや担当教官の教え、農業研修所の娘で自分に好意を抱くルイーズとの出会いであっても、偏った思考を変えることはできない。
それどころか再びイネス先生を手にかけようと計画を企てている。
そもそもイスラム教は決まり事の多い宗教です。聞かれればまぁ仏教かな、という人が多い日本とは概念が全く違う。
でも何を信じても、何も信じていなくても正解はない。
多くの厳格なムスリムが自分達の宗教を誇りに思っているならそれが正しい。
本来信仰というのは清らかなもののはず。でも同時に根深い闇を含んでいることもある。人はそこから這い出すことができるのだろうか。
ラストシーン。
左手がその手に触れる瞬間でさえも右手に握られた狂気が目の前の人物の喉を突き刺すのではないか。
気が気でならなかった。
人が自殺するためには、よほどの絶望がなければならない。明日に何の期待も希望もないとき、人は躊躇なく自殺する。期待や希望は大袈裟なものでなくていい。例えば今日買った靴を明日履くのはひとつの期待であり希望だ。太宰治の「晩年」の最初の短編「葉」の冒頭は次のようにはじまる。
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
ことほどさように、小さな理由で人は死なないものである。太宰の場合は着物をもらうことやそれに類いすることがなくなり、小説を書く意欲もなくなったから自殺したのだ。心に何も残っていなければ、恐怖も忘れるだろう。
しかし本作品の主人公アメッドは自殺しようと思っていた訳ではない。イスラム教には自殺を禁じる教えもある。にわか狂信者のアメッドに必要なのはジハードで死ぬことなのだ。ジハードで死んだ者を死んだと言ってはいけないと教えられるシーンもあり、アメッドはますます勇気づけられる。ジハードの相手は異教徒である。コーランから離れ、歌などでアラビア語を教えようとする教師。それはイスラムの教えから子どもたちを離そうとする悪辣な意図である。どうしてもやろうとするなら、もはや殺すしかない。
失敗して捕まっても、アメッドは崇高な使命を忘れない。従順なフリをしつつ、いつかジハードを実行する機会を狙う。できればジハードの際に死んで、信仰を全うしたいのかもしれない。アメッドの頭の中では、戦前の日本のように散華(さんげ)などという言葉で死を美化しているのだ。自分が生きた証は死そのものにある。母も兄弟も、誉(ほまれ)ある死を喜んでほしい。
狂信者は情報をシャットアウトする。信仰に反するものは何も見えず、何も聞こえない。異教徒は無価値であり、無人格であり、殺しても差し支えない。スマホを持っていても、そこから入ってくる情報に心を動かされることはないのだ。
葬式仏教に結婚式クリスチャンまたは結婚式神道という、極めていい加減に宗教と関わり合っている日本人には理解しづらい精神構造であるが、キリスト教文化が根づいたヨーロッパでは、イスラム教への転向もそれほど困難ではないのだろう。神は既にいるのだから、英語のGod、フランス語のDieuをアッラーに変えればいいだけだ。日本では仏教に神は存在せず、神道は八百万の神で森羅万象そのものが神だから、一神教を感性として理解するのは難しい。
宗教に依存しなくても生きていける日本人が世界的な長寿国となったのは、戒律による不自由がなく、健康や衛生といったどちらかと言えば科学的な価値観で生きてこれたからかもしれない。
グローバリズムは価値観の崩壊と新たな価値観の創生につながり、狭量で不自由な宗教的価値観からすべての人々が解放される未来がくるのかもしれないが、コロナ禍がグローバル化を妨害している面もあり、今後の世界はどうなるかわからない。
例えば暴走族が特攻服のようなものを着て、軍隊式の組織を作って自己アピールをしているのを見て、それに憧れる少年少女もいるかも知れない。誰でもまずは形から入る。暴走族の中身がないことに気付くのはそれほどの長い時間を必要としないが、イスラム教の衣服や生活態度や祈りなどに憧れてしまった場合、宗教には経典があってどこまでものめり込んでしまう。
本作品の主人公を見ていて、自爆テロをする子供や女性がこのように育っていくのだと、うっすらとわかった気がした。愛の代わりに憎悪を教える宗教指導者は、実に罪深い。
自分とは遺伝子レベルでシンクロしているとしか思えないダルデンヌ兄弟の最新作。相変わらず自分の魂にフィットしすぎる名作でした。
13歳のゲーム好きイスラム系移民少年のアメッドはイスラム原理主義者の近所のオッさんに感化されて、超過激派イスラームになりました。アメッドの先生は進歩派のイスラム教徒。オッさんに「お前の先生は標的だ」とけしかけられて、先生暗殺を敢行!しかし流石に失敗し、少年院送りとなり…というストーリー。
もうね、開始15分くらいで先生刺殺未遂事件が起きるあたりがダルデンズ。『ある子供』でブリュノが自分の子を売っ払って恋人のソニアにドヤ顔で報告したのがそれくらい。ダルデンズの場合、ビックリ事件から物語がスタートします。
本作を観て思ったことは、モロに思春期の話だな、と。ダルデンズ版中二病物語。
思春期は、生まれて初めて世界と自分を意識し、『自分とは何か』『意味とは何か』を考える時代だと思います。子ども時代までは考えなくても生きてこれたのですが、近代的自我を持つ大人になるには考えざるを得ない。ある意味、考えることが大人への第一歩です。
しかし、考えたって答えは出ない。その人が考えて、感じて、体験を重ねてその人なりの答えが少しずつ実感されていくのだと思います。
また、答えはリアルで地に足がついたものである可能性が高いです。永遠に空を飛ぶ少年から、地を歩く大人になるのです。つまり、理想と自分なりに折り合いをつけることが大事だったりします。
しかし、この折り合いはリアルであってもピュアではない。折り合いをつけた大人は、『複雑な世界を生きる人間』なのですが、ピュアな子ども時代からそれを見ると『汚れた大人』なのかもしれません。
(折り合いをつけてさらにピュアを獲得する人もおり、その手の人は芸術家になることが多そうです。ジョン・レノンとか)
アメッドはピュアなんですよ。大人を拒絶する13歳。これを日本では中二病と呼びます。
中二病も無症状に近いものから軽症〜重症とグラデーションがあります。正直、軽いヤツは「痛い!黒歴史!」で済むけど、重症は死にますし殺しますからね。古くは荒井由美の『ひこうき雲』、相米慎二の『台風クラブ』などが死に至る中二病の代表でしょう。アメッドは他殺型の中二病です。重症ケース!
ではなぜアメッドは重症中二病に罹患したのか?それは、移民・家庭内に割と大き目の傷つきがある・従兄弟がテロリスト(?)で死んでいる等の基礎疾患があったから、かもしれませんが、よくわかりません。
ひとつ言えることは、極端なピュアさは原理主義と相性バッチリだということです。近くに原理主義者のオッさんがいたから感化されたんでしょね、しかし、アメッド運が悪いね!とは言えない。ネットを開いたガチ中2が、好きな絵師さんがレイシストで、それに感化されてネトウヨに…みたいなケースなんてゴマンとありそう。本質的にはとても身近な内容だと思います。つまり、重度中二病になる危険性は現代社会のどこにでも潜んでいるのだと感じました。他のダルデンズ作品と同じく、本作もいつも通り普遍的なテーマです。
で、ピュアの果てにはなにが待っているのか。ひとつは爆死、ひとつは生々しいリアルに敗れ去ること。
アメッドは細かなリアルを体験していきます。少年院のプログラムである農場での作業等が、ジャブのように細かく入っているように思えたのです。一見効いてないけどたぶん効いている。そして、リビドーとフィジカルの痛みでフィニッシュ。
我々は生々しい肉体を持つ存在です。メシを食えばクソをするし、ムラつけばセクロスしたりオナニーする。このいわば汚らわしい活動からは逃れられない。生々しさを受け入れること、これが大人を生きるスタートなのではないかと思います。
そして、大人の世界には他者が存在します。生々しさに打ちのめされて、心身ともに痛みを抱えたとき、ついに自分と向かい合い、他者の存在に気づくのかもしれません。
その他も観応えあるポイントあり。まず、基本的に大人たちが大人(笑)。みんなアメッドの変化を待つことができています。待てる。これは不安を抱えて堪えなければできない態度です。ダルデンズ作品にはこの『抱え堪え』がたくさん出てきます。それがまた最高なのよ!本作も先生・母親・少年院の皆さん等、多くの大人が抱え堪えて待っておりました。見守る。この言葉もピタっとくるかも。とても難しいことだと思います、行動しないで待つことって。
その逆も然りで、大人のクソズルさも描かれています。ダルデンズに出てくる大人のクソさは、すべて見苦しい保身です。アメッドを洗脳したオッさんは、アメッドがパクられる前に「俺はお前を煽ってないからな、わかったな」とあまりにもダサい保身をカマしてました。この辺の卑小さがリアルなんですよね〜。負のリアルも描くから、希望がリアルなんですよ。ほんとシビれるなぁ。
あと、イスラーム移民の人たちのグラデーションもリアルだった。先生がフランス語学習のために歌を教材にしたい、という説明会を開いたのですが、意見がかなり多様です。「そんなのダメだ」という強硬意見から、どんどん取り入れよう的なリベラル意見も。それらの意見も細かく見るとそれぞれの考えに立脚しているので十人十色です。理屈ではわかっているものの、実際に観るともう一段深いところで腑に落ちるのです。これがまたダルデンズ・リアリズムなんだよなぁ、最高!